岳精流日本吟院総本部

第十節

旅の行程

岡山 → 倉敷 → 福山 → 尾道 → 本郷 → 西条 → 広島 → 宮島口 → 岩国 → 熊毛 → 新南陽 → 小郡 → 厚狭 → 門司港 → 八幡 → 帰宅

四十六 岡山を発す

家を出ること幾回か、この旅も一年を過ぎた。今、八月の暑さの中、岡山の駅の前に立った。
 時世にそむく五十四歳は惑いがないという訳ではないが、ただ西の空の雲を仰いでは、意志がますます堅固になるのである。

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四十七 尾道に到りて作有り

八月のたそがれどき、尾道の海辺。万物の活動は今静かにおさまろうとして、夕景色はひとえに深いおもむきを醸し出す。
 瀬戸内海に浮かぶ島々は山のように重りあって私の前に在り、海は一面たそがれ時の茜に輝いて、飛び交う鴎を染めている。
 林山氏が吹く尺八の音は清らかで情あるが如く響きわたり、私が詩を吟じては壮気がみなぎり、まるで愁いなど無いようだ。
 山陽道の長い旅程は未だ尽きず、静かに思うのは我が恩師がいます龍吟堂のこと、それは九州だ。

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四十八糸崎神社

 天子の遠征軍が立ち寄り水を汲んだとされる古きみやしろ。大樹だけは昔からの出来事を知っていて万里の海風に吹かれている。
 それにしても、その昔遠征したいくさ船というものはどんなものであったのだろうか?
空想は果てないが、瀬戸内海の潮の満ち引きは今も太古の昔と変わらない。

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四十九 旅衣偶感

次から次にゴーゴーと響き渡る車の騒音はわが身を圧するようで、山陽の車の通る道を難儀しながら歩いている。
 しかし、だからこそ伝えよう。お陰様で旅中安全無事であることを。清らかで汚れのない法衣のような旅衣を作ってくれたあの人に。

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五十 軒を借る

 雲の神が現れて天に墨を吐いたかと思うと、雷の音は耳をつんざくように爆発音を轟かし、雨はたちまち川となった。
 雷雨から逃れ、軒端を借りて吟ずるうらぶれた旅の者。吟ずるうちに段々と真に自分の正大の気を呼び起こす吟となってきた。

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五十一 書簡集「撫子」を思うて広島に過ぎる

八尾洋二、咲子の兄妹は学童疎開し、広島の原爆によってご両親と長男のお兄さんと一番下の妹さんを失った。兄妹には(疎開中に届けられた)一束の手紙だけが手元に残っただけだった。    (大人になるまで大切にしていた)その手紙類を一冊の本にされた。題は「撫子」とつけられた。
「撫子」とはお父さんからの最後となった手紙の中にやさしく問われた花の名前である。私は拙い詩を作ったが、これを八尾洋二氏に贈り、亡くなった方々の霊を弔うものである。

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五十一の2

 (私は広島平和記念公園にやってきたのだが、)八月の日差しの強い広島の空よ、 木陰の清々しい公園の風よ。時は流れる水に似てもう戻っては来ない。だが、水辺には原爆ドームが今も昔の傷跡を残している  行き交う人々はこの爆心地にてどんな思いをしているのだろうか?私は八尾兄妹が著した書簡集「撫子」を思い起こしております。それには一家六人が写った写真があります。一家は香り高く、清く安らかな空気に満ちていました。

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五十一の3

 八尾家は広島にお住まいでした。 そして、小学生である洋二さん・咲子さん兄妹は学童疎開のため、ご両親のもとを離れたのでした 凛として美しいお母様は、夜ひそかに涙を流し  子供の疎開のため心を込めて荷を作り、つらい悲しみを忍んだのでした。
   この家族は、普段から強い絆で結ばれていました。
                       
   疎開先の二人にはご両親やお兄様からの手紙が頻繁に届き、その内容は情愛が溢れるばかりでした。
また、戦争中だからこそ、却ってうるおいのある心を失わな いようにと、願っていました。
ご両親のなぐさめおしえる言葉は、まるで風のそよぐように優しさにあふれていました。  
  兄妹は万金に値するその手紙を、額を寄せ合って読みましたが、それは野辺の若草が太陽を仰ぐかのようでありましたし、手紙を読み進めては、自らを励まし、又、近くにご両親を思うことができ、 少しの間、さびしさと空腹を忘れたのでした。 そんな時、お父様からの一通の手紙の中に撫子の花のことを問いかけていました。 (その手紙は何時になく長く)子を愛しみ、大切なことを言い尽くし、書き尽くされておりました。

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五十一の4

 解るのでしょうか!一家が生死を別つことを。(その手紙が最後の手紙となったのです)ここで知るのは、心のすぐれた人には不思議な智恵が宿すと云うことです。八月六日、原爆は投下され空が焼けた。 一光りの閃光が一〇〇万の命の尊厳を踏みにじったのである。 幼い兄妹には残酷すぎて恨んでも恨みきれないものであったでしょう。身辺には、只一たばの手紙だけが残りました。                        
「お父さん、お母さん!未知子ちゃん!大輔お兄ちゃん!」 身も震える思いで悲しみ叫び、激しく泣きました。

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五十一の5

  戦後、幸いにも親戚の優しい養父母のもとで安らかに暮らすことになりましたが、 時おり、手紙を読み返しては涙を流すのでした。 悲しんで気がくじけるような時は、それを何によって払えばよいと云うのでしょうか。 この手紙の言葉が声となって、優しいお父様やお母様の面影が浮かんでくるのです。 ご両親は亡くなりましたが、そのまごころは大空の中に在り、いつも見守り続けたのです。 そうして二人の兄妹は人の道をはずすことなく成人しました。
そしてまた二人はそれぞれに家族を持ち平和な日々を迎え、 (親の歳をすでに越えてしまった今) 撫子でご両親の仰っている事が、更に大きく深いものである事を汲み取ることが出来るのです。
 

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五十一の6

 時が過ぎ、世の中はすっかり様相が変わってしまったが、 忘れてはいけない人類の大きな罪を。戦争は何時までも絶えることがない、この小さな地球上で。 永久の平和など夢の中に等しい。 広島の八月、清らかな風の朝、私は原爆記念館で合掌し改めて人を思うのである。伝えてゆくべきである!「撫子」の永久に語るのを。      
 あのご両親の気高い心や、深い愛情は鬼神をも泣かしめます。

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五十二 宮島を望む

黄昏(たそがれ)せまる安芸の海。夕日はさざ波に照り映えている。
宮島は黙して語ることなく、居然として太古の昔より営みを続けている。

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五十三 厳島懐古

毛利元就は遠く先々までの考えを張りめぐらし、深く考え策を練り、陶晴賢の大軍を島に閉じ込めた形にしたかと思うと、敵に気づかれぬように舟を島に寄せて兵を上陸させ、あっという間に滅ぼしてしまった。

彼は群雄が割拠して争う中に力をつけ、息子三人には力を合わせることを訓育し、一代にして中国の覇権をとったのである。

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五十四 夕べに錦川に至る

川は薄絹を敷いたような奇麗な流れに絹帯橋は架かっている。煙るような山の緑はその水面に映って良き夜を迎えようとしている。橋の向こうの山に日が隠れてしまう頃、気がつくと河原で遊んでいた人達はいなくなってしまったが、そこには月に照らし出された清らかな流れが絹帯橋の美しさと相まって実になまめかしかった。

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五十五岩国の山を越ゆ

道は羊の腸のように曲がりくねり、その上、山の空気は蒸している。周防にかかる難路は何を似て頼みにしようか。静かに野鳥の鳴き声を聞き、深い山の緑の中でくつろいだが、山には清流があってのどを潤し汗を拭うことが出来、また私には力強い同行の友がいてくれた。

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五十六 良心に触れる

生涯にただ一度かと思われる出会いに、旅心はかんばしい芳香を放つ。真心もって手厚くもてなされる人のことをどう表現したらいいかは判らない。この先再会することがあるのだろうかないのだろうか、いや、もうないだろう。そんなことを思って、せめて写真にでも一緒に納まって慇懃に分かれることにする。

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五十七 回天基地を訪ねて感有り 詩を賦し某氏を思う

昔日、太平洋戦争の時である。神兵となった若き特攻兵はこの目の前の海に挑んだのだ。

今、ここ回天の基地跡に来て空しく鎮魂歌を吟じた。(資料館を見てつくづく思うのだが)戦争の狂気というのは恐ろしいもので遂に死を軽んじてしまったのだ。かつてその特攻兵を送る人(実は私がお世話になった人だが)は当時も戦後もどんな心境だったのだろう。

 

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五十八 富海にて初めて九州を見る

遂に太陽の照り輝く中に九州が見えた。そこは富海といって白砂が波打ち際までつづきそのまま海が天まで連なっている浜辺だった。

あわれな姿をしている私は瞳を凝らして遂に来たぞと心を躍らせた。この愚か者は家を離れること八千里の道を歩いてきたのだ!

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五十九 小郡に向かって途上龍吟堂を思う

周防の旅路は、はや日が傾いて自分の影が真後ろにいよいよ長くなってきた。私はひたすら夕日に向かって歩いているが心に迷いはない。

ただ、高吟して龍吟堂に思いを寄せるので、どうぞ吟声が風に乗ってただちに下関の西へ至りますように!

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六十 小郡を辞せんと欲して作有り

出発しようとしてどうしても歩くのが無理だと認識した。朝起きて突然に足の土踏まずに激痛が走ったのだ。

目的地の龍吟堂はこれよりあとたった三日の行程という処である。同道の友、坂井さんはホテルを出たところで、しきりに私の足をもんでくれた。

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六十一 長府の旧毛利邸を詠ず

毛利家の邸宅はかつて明治天皇の巡遊をお慰めした所だ。昔の香り高い面影を今なお留めいている。

さっぱりとして誰もいない庭に、滝から流れる清らかな水が流れ、移りゆく時を惜しみながら安らかに年月を過ごしている。

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六十二 功山寺懐古 功山寺に於いて高杉晋作を詠ず

「『離騒』を残した屈原の深い憂いに、『正気の歌』を残した南宋の忠臣文天祥の魂を見よ! 今は回天の義挙があるばかりで、ここに倒って更にまた何かを論じようというのか。」

高杉晋作は断固として行動に移ったが、この英雄の勇ましい肝っ玉というのを後世の人は知っているのだろうか?立ち上がった同志は少なくなかったが、五卿が潜居されるこの功山寺に、彼は単騎堂々乗り入れ革命の決起を宣言したのである。

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六十三 関門橋に到る

東海道・山陽道の西へ西へと歩き続けた千里もの長旅はついに終わる。昔のままの関門橋を私はしっかりと見た。

さて九州側に渡ろうとして海岸に立つと関門海峡は夕日に照り輝き、潮は滾々とさかんに流れ、眺める私は色んなことが思い起こされ何んとも言えない気持ちになるのだった。

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六十四 門司港客舎偶成

関門海峡の高層のホテルにくつろげば太陽は傾き、旅人である私は遠くを眺めながらこの長い道のりを思う。ついに到達を祝って友と乾杯することが出来たが、尚今だ私は、澄みきった心境には到ってない。西に流れる海は滔滔として昔から未来へと変わることなく流れ続け、東に向かう船は、流れに逆らって必死で進み、遠いところまで出かけようとしている。飛び交う鴎は歩き疲れた不細工な私の心などわかりはしない。のろのろと歩いてきた私には、旅路での出会った人情や、自然の眺めが次から次へと想い出されているんだよ。

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六十五 偶成

小倉での若いころは、精神的にはあたかも根無し草のように心もとないものだった。十年余、それこそ自ら風の吹くままというふうだった。人生に迷う一人頼りげない自分だったが、どうして道を外れてしまうことなく済んだのだろうか?それは八幡に先生がおられて仰ぎ慕うこと窮まりなかったが、ひとえにその恩恵のお陰である。

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六十六 龍吟堂に到る

横浜からの長い旅路はついに尽き、龍吟堂では先生や吟友が門の外に迎えて喜び溢れるばかりだ。

吟魂碑に拝礼し、吟じ、旅の終わりを報告したが、きれいに手入れされ掃き清められた庭はまさに世の喧騒から離れて明らかなたたずまいである。

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六十七 龍吟堂

吟友は先生を尊んで八幡は台良町の龍吟堂に集い、道場には岳精流の吟が響きわたった。

世の汚れを払い、友と杯を交わし、花月を愛で、教本を繙いては賢人に親しみ、心の清く厳しい人を慕った。池の畔の紅葉は清い水面に映え、吟魂碑の梅の意味は新島襄の「寒梅」に彰かである。この龍吟堂の風光は清らかに明るく、四季それぞれの趣がある。それに増して、師弟の心情はさらに永久に香しいのである。

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