o糸崎神社…広島県三原市に在。天平元年(七二九)神功皇后が西征の帰途軍船を繋ぎ、水を汲んだところから、井戸崎と名され、これが糸崎になったという一説がある。神社はこの逸話に因む。
o皇宗…天子の一族。
o神宮…みやしろ。
o大樹…樹齢五百年を数え、特に根より三メータ余りのところの幹回りは十三メーターもある大樹。
o往昔…去る昔。
o劫初…太古。
天子の遠征軍が立ち寄り水を汲んだとされる古きみやしろ。大樹だけは昔からの出来事を知っていて万里の海風に吹かれている。
それにしても、その昔遠征したいくさ船というものはどんなものであったのだろうか?
空想は果てないが、瀬戸内海の潮の満ち引きは今も太古の昔と変わらない。
八日、青山・奥本の両氏と尾道を朝の五時に出発。
因みにこの地の人は吟に興味を示す人が多い。
前夜の尾道の飲み屋では地元の人と話しを交わし、飲み、吟じたが、大いに賑わった。
さて、三人は海岸通を暫く歩いた。
すぐ三原市に入ることになるが、間もなく、
何とも古びた神社で何よりも異形の楠の大樹が目に付いたので入ってみた。
立て札の説明を読むと、大変な昔からの由来を知る。
神功皇后は十四代仲哀天皇の皇后で、神託を受け臨月にもかかわらず新羅まで遠征している。
ものすごい女性だ!
それにしても、よくもまー、太古の人のスケールの大きさよ。
ロマンを感じる。
瀬戸内海にはこの糸崎の他にも神宮皇后にまつわる伝説が残っている。
九州にも無論残っている。
だが戦後の日本は「古事記」「日本書紀」という日本最古の史書にまともな目を向けないでいる。
戦前の反動と云うことでは学者も教育界も情けない。
山陽道の海岸線を歩いて感じるのは、島がほんとに多いと云うことである。
陸の方はというと緑豊かな山が迫っている。
これは昔、海賊が居てもおかしくはないと、少年になったような発想を楽しんでみた。
瀬戸内海の潮の流れや地形、そして操船に手慣れていないと航海は容易ではなかったろう。
瀬戸内の海の民は海の案内人となり、時によっては手練れの水軍となったのだろう。
船を自在に操り、住まう所や逃げ回る所もふんだんにある。