詩意
この土蔵相模屋に居続けたのは何日だろうか、高い酒を浴びるほど飲み、乱舞放吟する松下村塾の志士だった。
夜、英国公使館を焼き討ちし、天下に攘夷の志を示したのだが、自ら狂生となって抑えがたいのは志士たる憂国の情なのである。
解説
前回に続き、川崎から東海道の下り、最後の道を歩いている。 山口の長府を歩いて高杉晋作に触れたが、この品川宿にも幕末の若い血潮が沸騰する彼の足跡をたどることが出来る。品川一の旅籠であり妓楼の相模屋だ。
日本橋に向かって旧東海道を下ってくると品川駅手前で一号線に合流する近くにあった。今はコンビニになっている。
かつて大名行列を送迎した御殿山は、今も樹木に覆われて一号線の向こうに見える。相模屋とはいくらも離れていない。
高杉らはここに結集し、密議を凝らし、横浜の外人襲撃、それがダメならと御殿山の新築中の英国公使館の焼き討ちを計画し、まんまと実行したのだ。
幕末の動乱を見る時、吉田松陰の生き様と、彼を師と仰ぐ松下村塾生たちの行動力は激しい。
志道聞多(後の井上馨)らは英学修業、造船研究の名目で手渡された学資金百両を、そっくり土蔵相模屋に預けおいて、彼らの公用館のようにして同志が入り浸り、鯨飲馬食、放吟乱舞は興の向くまま、軍資金は超過してもさして意に介せず、正にやりたい放題に若い血をたぎらせている。全く尋常でない長州藩の雰囲気と時代である。
二百数十年続いた雁字搦(がんじがら)めの体制を打破するには、それに匹敵する大きなエネルギーと狂気が必要だったと云うのか。
つわものどもが夢の跡である。