解説
平成十六年三月二十一日東京駅を七時前に出発して、神田明神に参り、浄心寺に出くわし、萩原龍静先生を弔った。
それからは豊島区のとげぬき地蔵に参り、板橋の賑やかな旧通りを通り、いよいよ広い道を埼玉、蕨に向かった。川を渡り戸田の境に至ったのは十二時四十分と記している。その日の目的地、蕨に入ったのである。
急遽、埼玉岳精会へ連絡。間もなく野村、嶋田、斉藤、林の四氏が現れ、皆さんに蕨宿を案内してもらうことになった。
野村龍明(現・精明)先生は全国大会の構成吟もよく手がけたが、この蕨の地を取材して構成吟を作っている。埼玉岳精会の記念大会で発表されたが、小気味よく写真とナレーションでよくまとまっていた。
その先生がこの日も資料館や宝樹院そして三学院へと案内して次から次へと説明してくれた。
先生は言葉が明瞭で語勢も強く大変わかりやすい。高齢を理由に本部役員を丁寧に辞されたが話しぶりは少しも変わらず、いたって元気である。(当時八十八)
三学院では特別の思いが重なった。二年前、私はここで埼玉岳精会の会員であった森村さんのお通夜に出席したのだ。
媼は八十を越えていたが、しっかりした人で俳画をものにし、なおかつ詩吟、そして私の漢詩をみて習いたいと、意欲的だった。私は漢詩作りを、媼は俳画を互いにその初歩を教え会うことにした。
媼は私のよき理解者となり、心の安らぐ話し相手となった。お会いする時はいつも清々しい気持ちになれた。
亡くなったのは、媼が難しい約束事を二年がかりで克服して「漢詩」一題を初めて完成させた矢先だった。
自分の詩が出来たと森村さんは真から喜んだ。あの喜色にあふれたお顔は忘れられない。
人生別離足るとはいうが残念であった。もっとお付き合いしたかった。私は彼女に敬意を表して詩を作りお通夜で吟じた。お坊さんが私の詩をとり上げて故人を語り、説教してくれた。
(追悼詩)森村須弥穂先生の御霊に捧ぐ
画を成し詩を裁し雅歌を楽しみ、杖朝の勉励清波を起こす、
知音の談笑興尽くる無く、
慈愛の温容感佩すること多し。
その後、ご遺族から、ある俳画の複写を戴いた。それは亡くなって後、展覧会で披露されたもので「観音様」の見事な絵であった。私に残してくれたように感じて、私は毎朝手を合わせている。