解説
平成十六年一月十一日、家内と川崎から日本橋まで歩いた。自宅から京都までは十三年に歩き終え、これで東海道の完結である。最後を家内と唯一、一緒に歩いた事になる。
始め横浜鶴見の自宅から鎌倉へ歩き、平塚から東海道を箱根を越えて名古屋、木曽川にいたり、一気に京を目指し、そして北九州まで歩き継いだのだが、出かける度に何やら冷たい風に見送られた様である。
歩き旅は過程でもすっかり市民権を得た感じだ。何事もやり通して実績を積むことが大事の様である。
さて、大井大森の旧街道を愉しむ。
東海道は旧道に入ったらそれなりの雰囲気が感じられるものだ。百数十年たっても沿道の家並みには構造に名残がある。
格子窓の家がそうである。
一階と二階に格子の窓があったら、二階の格子は幅が狭い。
それは上から通りを見下ろしませんという意味があるらしい。
鈴ヶ森の処刑場跡。罪人を見送り別れた涙橋。品川までの旧道には神社仏閣が結構多い。この道を誰彼となく歴史上の人物も様々な人間が通ったのだと思うと面白い。今はファミリーマートになっている遊郭跡を過ぎる。江戸時代、ここら辺りはみな海がすぐ近くであったろう。 二人は品川駅に辿り着いた。彼女は言う。
「今日はここまでにしない?」
彼女の足の疲れ方を見ながら、「それではダメだ。計画を途中で止めたら、今後は何をやるにしてもやりきる事が出来ない。今日は全行程二〇キロ弱!」
品川で一休みした後はまた日本橋に向かって歩きだした。
「ほんとに続けるの?!」
笹川記念会館の前を通り過ぎ、勝・西郷会見の地を過ぎ、増上寺の交差点を渡り、段々と都心へ入って行く。銀座を歩く頃は「来た来た!来たわー」
と彼女も大いに喜ぶ。
銀座の賑わいと私の恰好はいかにも不釣り合いだ。
そして日本橋まで辿り着いた。夕暮れがせまっていた。
彼女は日本橋の欄干に倚ると万歳をした。
「そうだろう。そう云う気分になるでしょう。止めてはいけないのよ、解った?直子さん」
着くと同時に、すっかり日が暮れた。それでもライトの光りで川の流れも見えた。見えたけれど水は綺麗とは言えない、暗く濁りきった流れだった。橋の上には高速道路が走っている。
広重の絵がある。背後に朝日の光を浴びて大名行列が毛槍を先頭に橋を渡っている。
「おえどにほんばし ななつだち、はつのぼり、……」
「七つ立ち」とは今の午前四時に出発すること。
江戸時代というのは優れた時代だ。街道は整備され、宿場にはワラジも駕籠も馬もある。泊まるに予約の必要もない。自分の都合に合わせて旅が出来るわけだ。勿論御(お)足(あし)とご相談。
朝早く旅立ち、泊まる宿では一番風呂に入れたら何よりのご馳走と云うことであったらしい。
現代の「歩き旅」にも、人情も自然の情も感じられる。
二人は無事到着を祝って打ち上げをした。東京駅近くで適当な店に入りビールで乾杯!
直子奥様もいたくご機嫌だった。「おいしいー。歩き旅っていいものなのねー!」