ここが東大の赤門であるか、と見ながらそのまま歩いたが十七号線から外れていた。そしてこの道は見覚えがあるなと思ったらお寺の前に立っていた。今は桐里支部青柳龍静支部長のご母堂初代龍静先生の眠る淨心寺であった。
萩原先生は八十三歳になって吟の教場を開設した。私はその積極性に感服し、「こんな人がいるぞ」と、出先で刺激剤としてよく話題にしたものである。
先生は吟の他に書道・お花などそれぞれある程度までこなしている文化人であった。書道の腕前を拝見した時、つい
「スーパーおバーちゃんですね」と言ったら、すぐさま鋭いまなざしを向け、実に悲しげに
「私はやっぱりおばーちゃんですか?」
一瞬しまったと思った。私も「オバーちゃん」は禁句だと思っている。この時が初めてだ。だけど「スーパー」がついているのだ。でもそれでもだめか。
「いやっ、スーパーレディーです」と、弁解したが遅かった。
それ以来、萩原先生に差し出す葉書には「スーパーレディー萩原龍静先生」としなければならなくなった。萩原先生には悪いが、私には何時までも微笑ましい思い出として記憶に残る。
記憶に残ると言えば、この先生の精神をもろに見させられた思い出は真に峻烈である。
前述のように先生は病に倒れた。動作も言語も緩慢になられたなと思った矢先、臥せられた。
二年近くお顔を見ることがなかった。もうお年だしダメなのかなーと思わざるを得ない。
そんな時、電話がかかった。聰子(現・龍静)さんからである。悲しい知らせか!?しかし
「十一月三日の審査に母がどうしても受審したいと言ってます」
「えー!だいじょうぶですか?」
驚いた。老いの一徹とはこの事かと言ったら、また叱られそうであるが信じられなかった。
最優先、最優遇して受審していただくことになった。私が審査にあたることにした。
やがて当日、聰子さんに車椅子を押してもらいながら試験場に現れた。
どうぞと言うと、萩原先生はやおら立ち上がった。楽な姿勢で良いですよ言っても、今度は杖を聰子さんに手渡した。杖はして下さいと、戻してもそれを振り払って拒絶した。
やおら吟じだした。「山中の月」は藪孤山の絶句かと思いきや、真山民の律詩だった。
何処まで吟じられるのやらと、心配だった。ダメになった時どう言ってあげようかとそんなことばかり思った。
吟は一句、二句と続き中程過ぎても吟声は弱まるどころか、芯の通った声は益々詩情を帯びて来るばかりであった。固唾をのんだ。ついに最後まで吟じられたときは、萩原先生と私の回りは厳粛な神々しいもので満たされるものを感じた。何も言う言葉がなかった。言うことに困って、助手の矢内先生に
「どうですか?」と問うと
「イヤー、何も言うことがありません」と、同様だった。
自分で寝返り打つこともできない人が、どうしてこんな吟が出来るのか不思議だった。でも因みに聰子さんの後日談では「母はあれから一人で部屋の中を歩いています。不思議なこともあるんですね」だった。何だか解らないが、あれではスーパーおばあちゃんでは怒るはずである。
聰子さんのこの上ない介護を受けながら、ご家族に最後まで見守られ、ご自分の姿勢を崩すことなく一生を終えられた先生は、本当に幸せだったと思う。
教場は龍静先生の後を二代目龍静先生が立派に受け継ぎ、家族兄弟が吟じ支部となった。