岳精流日本吟院総本部

五十七 回天基地を訪ねて感有り 詩を賦し某氏を思う

o回天基地…戦争末期に考案された、特殊潜行挺・人間魚雷回天の基地。山口県の徳山港沖に浮かぶ大津島にその一つがある。 

o某氏…作者の知人。嘗て特殊潜行挺の整備の責任者を務めた。  

o神兵…死んで神と祀られる兵。(和習)。 

o鎮魂歌…御霊を慰める歌。(和習)。

詩意

昔日、太平洋戦争の時である。神兵となった若き特攻兵はこの目の前の海に挑んだのだ。

今、ここ回天の基地跡に来て空しく鎮魂歌を吟じた。(資料館を見てつくづく思うのだが)戦争の狂気というのは恐ろしいもので遂に死を軽んじてしまったのだ。かつてその特攻兵を送る人(実は私がお世話になった人だが)は当時も戦後もどんな心境だったのだろう。

 

解説

回天の特攻基地は徳山港から船に乗ると二十分のところにあった。上陸するとそれらしい建物の跡、古びたコンクリートや山を穿ったトンネルがある。また、透き通った海辺に魚雷発射試験場跡を見た。

戦後間もない生まれの私は、小さい頃より「特攻」とは悲壮で英雄的なものだった。が、この年になってみると、全然違った思いでいることに気付かされる。資料館では愚劣な作戦にやるせない怒りがこみ上げるばかりだ。戦争の恐ろしさだ。「英雄」には言葉がない。合掌するのみである。

そして改めて、後々まで「戦争」というものが糸を引いて私たちにまで影響を及ぼしたことを思う。某氏は、私の中学時代、級友の知り合いの「おじさん」である。三年の夏休み、級友は一緒にご馳走を食べに行かないかと私を誘った。行く先は天神山という佐世保の市街を囲む一角の小高い丘にある、某氏が一人で住む住宅だった。 初めて伺ったら某氏の海軍仕込みの手料理が狭いテーブルにずらりと並んでいた。当時の私としては目にしたこともないご馳走だった。勧められると一気に飛びついたような気がする。そしてビールに日本酒にウィスキー、朝起きてみたら、空き瓶がずらりと見事に並んでいた。

それから高校に入っても頻繁ではなかったが遊びに行った。 ある時は大きな声で歌いながら星空の山を下り、ある時は、早朝にげーげー吐きながら、色青ざめて帰ったものだ。経済的に諦めていた大学への進学を(少しは援助するからと)勧めてくれたのも某氏だった。

その某氏は戦時中のことを飲みながら漏らすことがあった。

「若い、これからと云う人生の、若者が、純粋に死んでいった。『お世話になりました!』、『行ってきます!』と挨拶して行った。中には機械がおかしいと帰ってくるものもあった。・・・、ほんとうにネ・・・丁度君たちぐらいのね、これからという若者達だったよ。」

消えることのない心の澱を残したまま我々をかわいがって呉れたのだった。