岳精流日本吟院総本部

田町 笹川記念会館

o会見の地…東京都港区田町。第一田町ビルの敷地内、昔薩摩藩江戸屋敷の 跡。
o鉄舟…幕臣山岡鉄舟。
o玉骨…高潔な風格。
o神…精神。
o剣禅…鉄舟は剣と禅の奥義を究めた。
o胆斗の如し…肝っ玉の大きい形容。
o士人…武士。

詩意

解説

「江戸無血開城」は、西郷隆盛と勝海舟の盟約によってなされた。我々吟人は徳富蘇峰の「両英雄」(天の巻)でその気分を充分に味わうことが出来る。
 しかし、この会見を成立させたのは自ら進んで勝海舟に会い、交渉の使者となった山岡鉄舟であった。
 慶応四年一月三日戊辰戦争勃発。鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府は、有(あり)栖(す)川(がわの)宮(みや)熾仁(たるひと)親(しん)王(のう)を東征大総督(とうせいだいそうとく)に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸を目指し進軍した。西郷は、東征大総督府下参謀である。
 一方、徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入った。
 東海道を進撃する西郷の軍勢が三月九日、静岡の駿府に入った時、山岡鉄太郎は勝の手紙を携え、単騎駆けつけ、
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
と大音声で堂々と歩行し西郷に面会を求めたのである。
 勝の手紙には慶喜恭順と江戸城明け渡しに対する新政府軍の適切な処置を求めている。
 西郷はすぐさま大総督府の総督や参謀達と慶喜恭順降伏の条件を相談し、その条件を箇条書きにした書付けを山岡に示した。
 山岡はそれらの中に一つだけ請けられない条件を見た。
 徳川慶喜を備前藩にあずけるという一条である。
 山岡は眥(まなじり)を決して言った。
「西郷殿は仮に私に立場を変えて考えて下さい。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。切にお考え下さい。」
 山岡の態度に西郷は感心し、
「分かりもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもす。」
と言い、山岡もその言葉に感動し、涙して西郷に感謝したのである。西郷は後に言った。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり」
彼を評して感嘆したのである。
 下地成って三月十三日高輪の薩摩屋敷において、翌十四日は芝の田町の薩摩屋敷で西郷は勝と正式に会見する。二人は約三年六ヶ月ぶりの再会であったが
「百万の死生談笑の中」
日本の歴史を導いたのである。
 西郷と勝、そして山岡鉄舟、維新は気高い武士の精神で成った典型である。